平成20年4月1日
南足柄市怒田
福澤神社
ふくざわじんじゃ
(文明社)
ぶんめいしゃ


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[掲示板]
1707年(宝永4年)の富士山噴火が原因で氾濫して足柄平野が荒地と化してしまった時、小田原藩主大久保氏は、自力復興が不可能な為、この領地を幕
府に返還しました。
 そこで幕府は当時南町奉行として名高かった大岡越前守に酒匂川を復興するように命じました。越前守はこの大任を果たす為に川崎宿の名主田中丘
偶に頼みました。
 築堤工事を任され丘偶は1720年(享保5年)から酒匂川大口付近の詳しい調査をし、1726年(享保11年)2月より工事にとりかかり5月に完成しました。
 堤には蛇篭に石を入れて積んだのですが、この中にお経を1巻ずつ入れたともいいます。今でも「だらに堤」「ほっけ堤」などの名前が残っているのはそ
の為でしょう。また人柱をいけたとも伝えられています。いかに堤が安全であることを神や仏に祈ったかがわかります。享保11年に丘偶が建てた「文命堤」
の記念碑には、今後人々は堤に来る時は必ず石を1つずつ持って来るように、堤には木を植え、草などもむやみに刈らないように諭しています。
 昔中国の禹という国の王が、黄河の洪水に悩まされ一生をかけて黄河の堤防を築いたので、その功績をたたえて「文命」という称号をもらいました。丘偶
はこの伝説からとって大口堤を「文命堤」と名づけたのです。今の福沢神社のある堤が文命東堤で、岩流瀬橋の所が文命西堤と呼ばれました。この丘偶
の立派な功績に対して幕府は百両という大金を与えました。ところが丘偶はその大金を水防組合の村々へ与えましたので、これをもとにして以後、神社の
祭典の費用としました。大口のお祭り(5月5日・6日)は、今でも盛大に行われています。

 




祭 神
天照皇大神( あまてらすすめおおみかみ )
牛頭天王( ごずてんのう )
宇迦之御霊大神( うかのみたまのおおかみ )
建御名方富命( たけみなかたとみのみこと )
八坂戸売命( やさかとめのみこと )
大山祇命( おおやまつみのみこと )
市杵島姫命( いちきしまひめのみこと )
底津綿津見神( そこつわたつみのかみ )
応神天皇( おうじんてんのう )
神功皇后( じんぐうこうごう )
仲哀天皇( ちゅうあいてんのう )

[参拝の栞]
 福澤神社栞
                    
  創立
 御創建は地誌や「新編相模国風土記稿」によれば、文明堤鎭護のため神禹詞を堤上に建てた
ことが礎であり、宝永四年(一七〇八)、富士山が噴火してより今年で約二七八年目を数えて
いる。
 旧社格
 従来、無格社であったが、明治四十二年八月二十日、村内にあった九社と文明社を合祀され
て村社と指定された。昭和二十八年十二月二十八日、法人令による、宗教法人「福澤神社」と
して発足、現在に至っている。
 社号 神号を文明、また大口文明の神と称えてきたが、明治四十二年以降、福澤神社と改称
した。                 
 祭典
 祭典の行事は必ずと云ってよいほど、浄瑠璃が奉納され衣装は勿論のこと、役付まで地元の
有志により実演されてきたことは「風土記」に『宝永五年の洪水に堤が、再度崩壊民屋流失』
とあり更に「幕府の乞」により『近境の鬼子母神に祈念して陀羅尼、一巻を川に投じ功を終え
た』と記述されているが、これらは至難であった堤をせき止められたことに対し地先に住いす
る者達が、慰霊報恩感謝の真心を献げる趣旨に基づいたものであることが考えられるが、語り
つがれた実現への努力も時代社会の変遷により衣装の保持と後継者の苦渋により文化財保存が
考えられていたが、継承できず古老者の語り草であることは惜まれることである。
 例祭日は五月五日に定められ、子供の日にちなみ心身鍛練など剣道が奉納されたが、場所の
関係で中止となり、現在は地区青年の協力によって子供相撲が奉納され、女子若連の花神輿も
催されている。
 秋祭は十月九日かつては馬匹強励により河川敷の馬場により近隣とわず県内至る地方より競
馬(きょうば)のため旗競馬が催され、例年壮観のきわみであったが今は面影をとどめるのみ
である。
 御神殿
 本殿・幣殿・拝殿とも素木であり二十九年坪五合・権現造り 
 現在の御神殿は合併時の明治四十二年八月の建造であるが、長年による風雨により水漏等生
じたので、昭和五十年六月十八日、ご神殿屋根改修の決定をみて同年八月十三日、建設資金の
奉加協力を区内に懇請して、十一月二十日、契約の取交わしをして翌年四月六日、完工をみ
た。
 この総工費は三百三十萬九千八百五十七円である。
 工作物
 境内入口に大鳥居一基
 以前から献立されていたものであるが当地の武藤亀次郎・市川繁次郎の両氏が昭和七年十
月、御影石(花崗岩)で再建寄贈されたものである。
 玉垣
 側面と前にめぐらされているが、側面は昭和八年五月吉日、後方は市川繁次郎同千代氏によ
って、なお前面は昭和十一年十一月吉日、奉献された。
 手洗鉢
 くりぬきの大石で造られ年代は不祥であるが古く価値あるものである。
 石燈篭
 左側に一基、なお同型が左右一対基あり右側に正一位稲荷神社と刻まれ、いずれも明治四十
二年、合祀時移献されたものである。近くは後方道路添いにコンクリートへきが酒匂産業竃{
多次郎氏により昭和五十年二月〜四月にかけ奉献、賽銭箱は鉄製型を市川隆、市川恒秋、福田
きぬ氏三名によって奉献されている。
 石碑
 御本殿右側に文明堤のいわれが刻まれ、その手前に堤構築のため貢献のあった当時の田中丘
隅(きゅうぐう)によって堤の碑が建立されている。年代は「享保午夏起」と記され旧暦八年
の夏が推察されるので、噴火後約十五年目であり今から約二百六十三年前のことである。  
             
 大鳥居の右側には文明用水碑が建てられ、水に対する恩沢と苦渋さが記されている。
 境内地 現況は百二十九坪であるが、登記坪数は七十一坪であり五十八坪は帳簿上、共有地
になっているので、共有者の造詣と理解により寄進の意向により総坪数として編入されるよう
努力されている。
 縁起(つぼ石の由来)
 富士山の噴火は宝永四年であるから今から約二百七十八年前のことである。古文書によれ
ば、「焼石、砂降り深くて一丈もあり青草見えぬところ数百里」とあり、また「酒匂川上流大
口周辺も埋まり大水が溢れ田畑や家を流した苦しみが二十年も続き妻子を連れ住居に迷ったそ
の辛惨たる状は表舌できず」、村民たび重なる水害に堪えず愁訴す、時の幕議もこの秋、放置
できず、と町奉行大岡越前守忠相にその復興対策を命じ、武州の田中丘隅に堤防復興を委ね彼
も「尭王の臣であった禹が治水の業たくみであったので、その先例を取り入れ蛇篭に石をつ
め、かつ土を集め水除堤を築きその礎をなし遂げたが、此の功なった此の堤を永続させ神の授
(たすけ)を乞うべく堤のほとりに禹王を祀る社を建て、社建立完成を卜占して例祭を四月一
日に定む。
 故もて四月一日、例祭日には老若男女の別なく神の恵を受けねばと参詣時、土、石を必ず運
び堤にあげ、祭祀の行事としてきたことである。この行績を永々、末代までこの村が続く限り
守りぬこうと申し合わしたことであった。注釈(各部落別に石を堤防へ積みあげることを恒例
としてこれをつぼ石という。)
 堤上に祀った文明の社は享保十一年四月、修築されたが、此のとき事蹟を伝承するため碑石
を設け東側にあるので、文明東堤の碑といい我流瀬の方にある西側の碑を文明西堤の碑といい
明治四十三年、此の文明社に九柱の社霊を合祀してより福澤神社と称するようになった。
 記録はさかのぼるが、尚、享保十一年、幕府は文明堤構築の功をめで、百姓一同が力を合わ
せ至難を成し遂げし苦労と努力に対し金百両を下賜さる。村民相議し田中丘隅の了諾も得、
村々に柿を主とした果樹を家々に植え、生育後、秋の祭には必ず神前に吉き品を備えることを
申し合わせたことである。
 編集後記
 以上の縁起は土地に残された古文書に寄るものであり、努めて原文そのものとした。
 昭和四十七年八月、刊行された「新編相模風土記稿」にも、宝永五年の大洪水の惨状が記さ
れ村民の愁訴あり江戸幕議のこと大岡忠相が心を労したこと武州川崎宿の田中丘隅による功績
に至る状況が著わされているが、吾われ福澤地区の方は勿論のこと特に斑目・千津島・壗下・
竹松の地区を始め現在氏子区域外であるが、開成町の岡野・下方の和田河原区を含む六地区は
かつての文明社(山王社・水神社を含む)が鎮守の社でもあり忘却してはならないことは昭和
十年頃まで続いた「つぼ石」のことであり地区名も皆水害に関係した名称になっている。新体
制下とは云え一度でもより多くあの堤を固めようという当時の人々達の悲願は地区をあげ年三
回の祭祀として怠りなく継承されかつ例祭日五月五日には堤上隈なく市が二日にわたって催さ
れている発端は悲願でもあり、命の綱とも考えた農耕の具を並べ地区農民の誠意を神に照覧ね
がったしぐさでもあり「相模風土記稿」を推察すれば享保十一年四月の例祭からであることが
うかがわれる。
 今を見る堅固な堤も決して機械力のみで出来たものではなく大半以上が土地先住者の人力に
よって積み重ねられたものであり堤を共にしようと闘ってこられた行績を偲び、称えずにはい
られない。
 水害鎮護の神として祀った禹神と明治四十二年八月三十日、本神社の宗祖と仰ぐ天照大神を
始め山の神・水流支配の神・稲穀生産の神・人為思惟交流の神とうが合祀され福澤神社と改称
こそされたが、約二百六十三年間平温である今日を迎えるまであの堤上に生える老松が悲喜
交々堤を始め地区内隈なく御守護なされる神として鎮座なされるいわれを造詣し深めると共に
われわれ地区内先住方々のご意志をも歳々心を新にして安住して生業につける恩顧に感謝し神
意に応え、ますますこれが発揮されるよう努めなければならぬと思考される訳である。


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撮影 DMC-TZ3