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室町時代の1394(応永1年)に大雄山最乗寺が創立された時に毎日のこと足柄明神と飯沢八幡の二人の神が手伝いに来たと言われています。
もちろんこの話は伝説に過ぎませんが、それでも最乗寺の山王様が代わられた時は必ず八幡社に参詣して挨拶する事になっています。昔から 境内には多くの五輪塔がありましたが、今は崩れて下の畑に積まれています。しかしこれらの塔は鎌倉時代から室町時代にかけてのもので、石 造物としても文化財の価値の高いものです。
この五輪塔の細かな形の移り変わりを一目で知ることができます。この五輪塔は、昔は武士階級でないと造る事が出来ませんでしたから古く
から八幡社を管理していた豪族がいたと考えてよいでしょう。
「新編相模風土記稿」には磯崎左京太夫という人から12代目の惣左衛門という人が管理者であるとなっていますが、或いはこれらの家の者か
もしれません。祭神は八幡、神明、白山などの神々様で江戸時代の例祭は8月でしたが、今は4月の桜の花の満開の頃で最近まで神楽殿で神楽 や歌舞伎などが行われていました。明治になって市内の神様を合祀して南足柄神社と呼ばれ現在に至っております。
[南足柄神社由緒記]
祭神
創立
御創建の年月日は、詳ではないが、応永元年と云えば一三九四年であり今から約五九四年も
前のことである。最乗寺の開基が一四一〇年であるから縁起で解るようにその年代を溯ってい ることが推測できる理である。
旧社格
従来、無格社であったが明治四十三年五月十五日、村内にあった十一社と三神を合祀されて
村社と指定された。
昭和二十八年十二月二十八日、法人令による宗教法人「南足柄神社」として発足、現在に至
っている。
社号
神号を八幡または飯澤大明神と称して来たが明治六年七月、飯澤神社と改め合祀後南足柄神
社と改称した。
祭典
由緒等記録書がないので判明しないが、寛文元年は一六六一年であるから、舞殿は今から約
三二四年前に御建造されていたことが推測されるので、神楽舞等が奉納されていたであろうこ とが考えられる。昭和二十五、六年頃までは地方芝居とう地元青年の協力により催され、また 近年は三年毎、地元自治会の協力により花車とう繰出されている。
例祭日は、合祀後四月十五日と定められており祭典行事等、随事に実施されている。
御社殿
本殿は一坪、幣殿は五坪、拝殿は十坪であり、本殿は寛文年間の建造と云われている。今の
拝殿は合祀時、広町地区に祀られていた前、神明社の社殿を移築したものである。
工作物
今までの舞殿は、以前の拝殿を使用して造ったものであるが、長年にわたり屋根の破損とう
も見うけられ建造保存を考慮して、昭和五十九年四月八日、各崇敬者の奉加協力金により屋根 の改築を実施したものである。(この改修金額は二百七萬五千余円である)鳥居は表参道に一 基あり、昭和四十年十二月九日、木造を石造に変え再建されたものであり、高さ二間半、巾一 間半であり(工費は四十一萬八千余円である)東参道にも木造一基の鳥居があり、昭和五十三 年五月十四日、崇敬者の力添えにより再建された。(工費は四十三萬二千余円である)
境内地
明治四年、上地令に基づいて官有地になったが昭和二十二年、法人令の改正と境内地保管林
の処分法により同二十三年四月、譲与申請。同二十四年四月二十日、譲与を受け、同二十五年 五月二十四日、登記を完了する。登記は三筆からなっており総坪数は三一八坪六合七勺であ る。登記権利者として代表地番が、南足柄市飯沢字西海戸二九八番地である。
境外地の処分と協力付記
明治四十三年五月、飯澤神社へ村内各社の神社を合祀された後も跡地はそのままになってい
た。筆数は三十筆であった。
昭和三十二年二月、散在地の処理方法が、総代会の承認を経て左の方法で処理された。
・散在地は神社へ寄附ねがうと共に(土地に見合った金額を応分に)所有権を関係地区に移
すこと。
右方法として昭和三十三年一月より同三十五年にかけ承継登記を申請した。
飯澤区へかつて在住された「梶寿雄」氏が昭和三十一年から四十三年までの十二年間総代と
して任期中率先境内地、整備推進のため努力を重ねられたことは社史の一頁として尊い事跡に なっている。申請の手続きも難渋したが、最終的に昭和四十三年七月、完決を見ることになっ た。
・散在地の処理は当初計画として樹立された「御神殿の改修、並び屋根を金板葺改修する」
という考えに基づき毎年実施している定期積立金の基金となっている。
縁起 神号は八幡であり、また飯澤大明神とも云われてきた。この八幡明神は旧郷社の足柄
明神、箱根権現と共に最乗寺が開基されるとき、当時、了庵禅師の事業を助けた三守護神でも あり、同寺の貴い縁起として継承され境内へ三面神として奉斉祀し、祭経勤仕されている。 神社の御創立は、新田義 貞の臣、磯崎左京大夫の後裔が八幡大菩薩を勧請したのが始めであると云われている。寛文年 間と言えば、一六六〇年〜一六七一年の間であり同元年から数えて既に三二四年を経ている が、当時、ご神殿の創始は現飯沢区の先住者が境内地にあった一本の楠の木で改築されたもの であると信仰による貴重な口碑になっている。
明治十一年、飯澤山の用水口に祀られていた山神社、並びに飯澤西海戸に祀られていた熊野
神社を当神社境内に遷されている。旧村内にあった無格社が合祀されたのは神社が国家神道と して発足してより、太政官から発せられた当時の神祗令に基づくもので、祭祀励行の国是であ った。勿論村民の合意と最乗寺住職、有田彦竜師の認諾があったことは云うまでもない。
近年に至りこの意志を継承され境外地の処理をして財務の確立をはかると共に底流として持
越された境内地の整備を三十二年より実施してまた境内中の雑木(主として樫)を入札、売却 し現在の新樹植林をして、維持管理の基礎かためを計ったことである。この時、神殿の横に在 った老松も古損木となったので処理されている。
以来神社規則も昭和二十八年十一月十日に定められて、宗教法人神社として発足し、旧南足
柄区内氏子の敬神として例年祭祀が執行され、祭神合祀により足柄神社三番制の祭典には上、 中、下を通じ、例年神輿出御の旅所として御立寄になられ、ここ数年来、新住宅の増加や大雄 山最乗寺の道筋にもなっているので、参詣者も多く、保存会による足柄ばやし等祭事には奉納 されて神恩感謝畏敬の誠が献げられている。 |