平成20年6月7日
小田原市城内
報徳二宮神社
ほうとくののみやじんじゃ
(二宮さん)



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                 神池

祭 神
二宮尊徳( にのみやそんとく )

[参拝の栞]
 報徳二宮神社略記
 御祭神 二宮尊徳 
 二宮先生は相州栢山村(今の小田原栢山)に生れ、小田原藩大久保忠真公の抜擢により身
を起し、富国安民の方法を説き、乱れた諸藩の財政を整理し、又荒地を開拓し、勤倹譲の美風
により産業を振興させた。その功業は一世に卓越したものがある。
 鎮座地及び境内 
 当社は御祭神の出身の地である小田原に神社を創立し、以って御神徳をあがめようとする報
徳社員の力により、旧小田原城二之丸小峰曲輪の復元なった小田原城を東北に見る小田原市
中央に位する。  
 境内は御祭神卒去八十年祭記念の為、小田原町より献納の境外所有地を含めて凡そ一万三千
平方米余(四千坪)。老杉古松が四周を囲む静かな中にも明るい所で四季を通じて参拝者の心
の憩の場である。
 祭儀 
 例祭 五月第三日曜日、神徳景仰祭 九月第三日曜日、筆まつり 一月二日
 御社殿
  神明造り 明治廿五年九月十二日 允許を得、社殿を建設して同廿七年四月十四日、御祭
神を鎮座した。後明治四十二年四月、本殿幣殿を新築し、拝殿を改築して神苑を拡張し現在に
至っている。尚神殿礎石は天保七年、関東奥羽大飢饉の際、二宮先生領主大久保侯の命によ
り、小田原領内饑民救済の為、激論の結果大英断を以って開かしめられた米倉の礎石を、神社
創立の際絶好の記念として社殿の礎石に用いた。
 宝物殿(建坪二十坪) この建物は御祭神卒去八十年祭記念の為建設されたもので、多数の
関係宝物を陳列し拝観の便に供えている。
 報徳文庫 報徳に関する図書を蒐集し、この道の研究、発展の為に供えて居る。又関係書物
の発行、出版も行っている。
 福住正兄翁頌徳碑 福住翁は二宮先生の高弟で報徳に関する著書も数多く、(主書「二宮翁
夜話」「富国捷経」)その思想を後世に伝えた大きな力でもある。その業積をたたえた碑が境
内の一角にある。撰文竹添光鴻・篆額「報徳克譲」二宮尊親書碑文の書者小島謙吉、大正五年
五月建立。
 報徳福運社 福住正兄翁の遺産を元にし、御祭神の遺教をもって行なう公共事業、教育、興
産等の資金援助を行なう法人団体である。
 報徳社(会) 御祭神を崇敬し報徳の主旨を実践することを目的とする報徳社を各地に設け
て道を振興し、もって国家安泰をはかる機関である。

[ホームページより]
明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相
模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰
曲輪の一角に神社が創建されました。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神宛を拡張
し現在の社地の景観をを整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今
日に至っています。
現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り。なお、拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保
公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原
11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられていま
す。

[ウィキペディアより]
二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年(1856
年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年
(1891年)に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、
明治27年(1894年)4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。


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撮影 P905i