平成21年4月6日

足柄上郡松田町松田惣領

寒田神社
さむたじんじゃ

(お明神さま)
おみょうじんさま


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                    風害記念
  維時昭和七年十一月十四日俄然颱風
  襲来夜ニ至リ益募リ十時十一時ノ交
  其極ニ達シ神楽殿ヲ倒シ御本殿ヲ破
  リ七百年来ノ老樹モ大半吹倒サル當
  神社ハ通稲榧森ト呼ブ是榧樹繁茂セ
  シ故ナリ今ヤ未曾有ノ大風ニ遭ヒ風
  致ハ傷ヒ其名モ亦廢レントス遺憾ノ
  極ナリ神奈川縣知事之ヲ痛ミ復舊補
  助費ヲ交附シ之ガ復舊ヲ希ム故ニ茲
  ニ録シテ記念ス
  昭和八年七月建設


      
手水舎               


堅牢地神         





寒田神社大祭典に江戸時代より行われており、その起源は詳かでないが文政13年徳川幕府に差し出した「人別一紙目録」にはその編成、服装等詳細
に記されており、以来幾星霜幾多の変遷を経てきたが、明治初期藩制廃止に際し、小田原城主大久保家の奴振りの師範を招いて指導を受け、一層充
実し、小田原藩十一万三千石の格式により今日まで受け継がれてきた。
昭和46年同保存会が主軸となり、衣装、調度品並びに御駕籠を新調、保存会員の拡大を図り、益々盛大となってきた。
演技の中心は奴振りで行列のかけ声と共に演技振りを行いその変化に富み独特の風格を持っていることで世に知られている。
 
本品はいずれも神社創建当時より御神宝として鄭重に保存されてきたもので、高台が特に高くロクロ目荒く、表面が輪なりにごつく、あたかも縄文のよう
に見える、なお全体の形はふっくらとして量感に富み、誠に格調高く感じられ稀に見る逸品である。


                        神楽殿



 









         


[案内板]
西暦400年頃の古代に創建されたと言われる由緒ある神社で、延長五年(927年)に国が
作成した延喜式神名帳に、相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と明記されています。
古代には、箱根声の旅人が足柄道の通行の途中、この神社に旅の安全を祈願したと言われ、
倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の折に立ち寄られたと伝えられています。
祭神は倭建命、更に文明四年(1472年)弟橘比売命(おとたちばなひめ)を合祀、大正二年に
天神社二社、昭和三十六年に庶子八幡社を合祀しています。




参集殿                


社務所                 



神紋は八剣輪宝
八又はオロチ伝説、剣は産鉄を象徴か。







  
           明治二十七八年之戦役陣込軍人之碑(郡内唯一)



 



 

 

 

 

 








日本武尊が腰掛けた石


かつては栢樹森と呼ばれていたが、いずれは樫樹森と呼ばれるのであろうか。


               社殿改築記念碑
 寒田神社は仁徳天皇三年亥十一月の御創建で倭建命弟橘比売命誉田
 別命菅原道真公を祀り延喜式内相模十三社の一に位し社領壱百五十
 石を賜り上古より上下の尊崇の厚い神社であります
 旧社殿は明治初年の建築でありましたが老朽の程度も多くなりまし
 たのでこのたび氏子崇敬者の御協力を得て大正四年御大典記念とし
 て惣領と庶子の入会権者の方々が寄附された松田山の原野十町歩を
 松田山開発により売却しこれを基金とし 更に氏子崇敬者の特別寄
 附を加えて今上陛下の喜寿を記念して御社殿を改築いたしました
 設計を竹澤古典建築設計事務所に施工を株式会社下田組に内装を大
 槻装束店並に高田装束店に依頼し昭和五十三年一月着工一年有余の
 歳月を経て昭和五十四年二月竣工をみるにいたりました 御本殿は
 流造り拝殿は切妻千鳥破風向拝を切妻平入造りで古来の技法を生か
 し近代建築の粋をつくし耐震耐火鉄筋コンクリート銅板葺であります
      昭和五十四年三月二日





 






榧(栢)
入口付近の風害記念にあったように昭和7年の風害でほとんどが倒れてしまった

現在の鳥居は三の鳥居。一の鳥居は宮下公園のあたりにあった。
(足柄上郡松田町松田惣領字)宮下の地名は寒田神社の一の鳥居があったためとされる。










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撮影 P905i