足柄上郡松田町松田惣領

寒田神社
さむたじんじゃ

(お明神さま)
おみょうじんさま


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由緒・考察
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祭 神
           倭健命    (やまとたけるのみこと)
           弟橘比売命  (おとたちばなひめのみこと)
           菅原道真   (すがわらみちざね)
           誉田別命   (ほむだわけのみこと)



[由緒書]
古風土記残片や新編相模風土記稿によると、仁徳3年11月創建されていたといわれる。延喜式神
名帳相模13座のうち小12座のうち1番とある。
延喜式には相模国足上郡、東鑑には相模国松田郷、万治3年検地では松田惣領、延宝7年検地では
上松田村、文政13年では大井庄松田惣領、「津久井郡石楯尾神社の天保改刻相模13社一覧」には松
田惣領栢ノ森、明治9年以降足柄上郡松田惣領字沢尻1767で、承応3年(1654)の洪水で社地が流失
しているが創建以来の鎮座地である。
往古は相模田神社、佐武多神社、佐牟太神社、佐牟多神社などと称し、元和6年(1620)より寒田神
社神田大明神と称し、明治元年より寒田神社と称せり。
祭事:7月31日「例祭」
倭建東征の折、暫く滞在の史跡として名高く、社前の酒匂川は命が幸先を祈りこの川に酒を流
し、帰還の折も酒の香が残っていたので酒匂川と名付けられた。また滞在の折残された白木の枕
二個が伝わる。


新編相模国風土記稿には、「日本武、埴安媛二尊の像を安ず」とあり、古くは倭健命と埴安媛命が
祀られていた。
埴安媛命は土の神、田畑の土壌の神、陶器の神で、伊邪那美命が火の神・迦具土神を産んだとき
に、火傷で苦しみながら糞から生まれた神といわれている。
単なる土の神というだけでなく作物の実りをもたらす神であるともいえ、食物神の豊受大神と
一緒に祀られている場合も多い。
土のエネルギーを司る埴安神は、陶器の神であるとともに田畑の土壌に宿って穀物の豊作をも
たらす神でもある。

別当寺は松田庶子の文殊山大蔵院安養寺(修験宗)であり、修験道とは、奈良時代に成立したとさ
れ、森羅万象に命や神霊が宿るとする古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)
という山岳信仰仏教道教陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教である。開祖は
役行者(役小角)とされる。修験道の実践者を修験者または山伏という。





◎寒田と鉄

 まず寒田(相模田・佐(わきで支え助ける)牟(鉾)多・左牟太・左無多・佐武多)の名称から製鉄の痕跡が伺える。テツの語に対して「サヒ」の語群がある。
八岐大退治のときスサノヲノミコトが使用された剣を韓鋤剣(からさひのつるぎ)といい、鋤持神(さひもちのかみ)という。塞神というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。
 サヒはサヒ、サブ、サビ、サムとも転化し、寒川寒田という名の神社や、寒河江祖父江
の地名もこれに由来する。
 朝鮮半島では蘇伐(そぼる)、所夫里(そぶり)、卒本(そほる)、忽本(そほる)、首露(すうろ)、草羅(さうら)となり、ソウル(京城)となった。百済の言葉は現在の日本語と融合しているとの説が裏付けとなる(百済の言葉は現在の朝鮮語とはまったくの別種の言語)。
 サビ・サブ・ソブ・ソボ等、この語類のサ行音は元来砂・小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり、普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びるところから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。
 曽尸茂利(そしもり)はソツムレで鉄の山、高千穂の添山峰(そほりのやま)は砂鉄のある山、日向の襲(そ)の国、熊襲の襲(そ)もやはり鉄の産地を意味し、寒田神社にもあるヤマトタケルの物語は鉄の産地に多く残っている。

 塞神というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。雑賀、才賀、造賀草加相馬などの地名もそうであろう。

 寒田神社のある松田町は松が多くあった土地に由来すると思われ、油を含む松は強い鉄を作るのにもっとも適した炭材であり、酒匂川・川音川の水源の他に多くの沢を有す松田町は豊富な水と良質の炭は製鉄に適した土地であったことを伺え、現在ではほとんど見られないが、酒匂川は製鉄に必要な川砂鉄を産出していたのも事実として確認できる。



◎鉄の痕跡と製鉄・鍛冶の神である天目一箇神
 @金太郎伝説
 酒匂川周辺の製鉄の裏付けとして、近隣ではあるが金太郎(坂田金時956-1012)伝説の大鉞もその近辺にタタラ場があった名残だと思われる。
 童謡「まさかりかついで金太郎 熊にまたがりお馬の稽古」は製鉄集団をスポンサーにして、土蜘蛛(鬼が出てくる童話は渡来系製鉄集団が鬼のモデルのパターンが多い)・酒呑童子(大江山・金属鉱脈)などの朝廷に楯突く製鉄集団を押さえつけ、朝廷に取り入ったと解釈できる。また金太郎の腹掛け姿は鍛冶を象徴している。

 金太郎の伝説が残る箱根の姥子温泉には眼病(製鉄の炉の火を管理することによる目病)およびその治癒伝承があり、タタラ師の片目伝承や眼病治癒信仰と重なり、大雄山天狗信仰(妙覚道了)山伏につながり山伏は鉱山師にもつながる。
 また、金太郎の父の坂田蔵人は製鉄・鍛冶の神の天目一箇神(あめのまひとつのかみ)系の娘を嫁にした説もある。


 A一つ目小僧
 南足柄市に伝わる一つ目小僧伝説(神奈川県企画調査部県史編集室著:神奈川県史 各論編5 民俗)によると、12月8日と2月8日の両日には、一つ目小僧が来ると言われ、メカイ(目籠)を棒の先にかけて庭に立て、履物は全て室内にしまい込んだり、グミの枝にネギをさして戸口にさしておいたりもしたという。一つ目小僧は前述のとおり、たたら師の片目伝承によるものと考えられる。

 また、関東地方では旧暦2月8日と12月8日の事八日の夜に箕借り婆と共に山里から出てくるという言い伝えがあり、目籠を軒先に掲げて追い払う行事をする(製鉄に関連した)地域もある。
 南足柄に伝わる一つ目小僧は事八日に毎年帳面を持って家々を回り、戸締りが悪い、行儀が悪いなどの家の落ち度を調べ、それを疫病神へ報告して災難をもたらす。その際に一つ目小僧は12月8日に家の落ち度を帳面を記入して道祖神に一旦預け、2月8日をそれを受け取りに来るとされる。


 Bダイダラボッチ
 製鉄に関連した地域の伝承に多く登場するダイダラボッチは製鉄・鍛冶の神である天目一箇神と関係の深いとされ、足柄地域には、ダイダラボッチが藤蔓で山を縛って運んでいたら足柄山で蔓が切れてしまった。ダイダラボッチが持ってきた山が今の矢倉岳と言われ、矢倉岳にはクツバフジはない。といった伝承がある。
 ダイダラボッチ矢倉岳富士山の上に乗せる気でいたという伝説があり、それが何を意味するものなのかは不明であるが、矢倉岳は金太郎伝説の拠点付近であることからも、何かしらの製鉄にまつわる伝承、または古来からの失われた神話的要素のものと思われる。


 C師長の国造
 足柄平野酒匂川流域は大化の改新(645)により相武(相模)に合併される前は師長国と呼ばれており、出雲族の国師長の国造は天目一箇神の父天津彦根命の14世孫の建許呂命で成務天皇(131-190または4世紀半ば?)に子のオオトミワシオミのミコト(意富鷲意弥命)が任命されたとされる。
 仁安の頃(1166〜68年)に中村庄司平景平・同宗平等神山村所管すとあり、中村庄司宗平一族は師長国造の末裔とされており、現在松田惣領に多い初代町長など町の重役を数多く輩出している中村氏はその子孫であろうか。大和朝廷の支配による合併により、師長の国の霜見にある一の宮の
川匂神社は二宮となった。


 Dその他の足柄平野のたたら場の痕跡
・1970年代に神奈川県南足柄市でタタラドの砂鉄製錬遺跡出土が確認され、千津島には中世か
 ら鋳物師(イモジ)が住み着いていたとされる。
・箱根の明神が岳の山麓(板屋窪)にたたらどという地名があり、たたら製鉄の遺跡が発見さ
 れている。
・曽我別所など、各地の別所地名のあるところは奥州俘囚のうち産鉄人たちを移送し住まわ
 せた場所とも言われている。



◎製鉄による地域の発展?
 延喜式(905年編纂、967年施行)には土着の生活を扶助する料稲として相模国俘因料2万8600束と記述されていることから、比較的多数の夷族が居住していたとされるのは、製鉄による農業や戦闘力の発展と思われ、金太郎伝説のある足柄神社と松田の寒田神社に共通する日本武尊伝説は古代大和朝廷による鉄を収奪するための東征であったのではないだろうか。



◎師長国の拠点としての寒田神社 まとめ

 種蒔きの時期である春分の日の近く、4月1日頃の寒田神社から見た太陽は、太古から畏怖の対
象であった富士山に沈み(相模国一宮寒川神社からは春分の日にちょうど富士山に日が沈む)、収穫の時期である秋分の日に満月が富士山に沈むことからも、富士神界磐座でもあったのではないだろうかと考えられる(太陰暦を用いていた日本では月の位置を重要視か?)。


(参考1)太陽


寒田神社を中心に日出日入・方角を重ねた図(googlemap)。寒田神社のある足柄上郡松田町より日没を確認した。

(参考2)月

収穫の日とされる秋分の日は満月が富士山に沈む。



・寒田神社創立の4世紀頃から酒匂川の大氾濫や河難沢の土砂崩落で社殿が何度か流されながら鎮座地が移転した形跡はなく、名木100選の樫(イチイガシ)の樹齢からも短くとも500年は今現在の場所にある。
・春分・秋分日没に富士(可視)
・秋分月没(満月)に富士(可視)
・鬼門に大山(不可視)
・裏鬼門に箱根神山 箱根神山は南足柄市の大雄山最乗寺(曹洞宗)(応永8年(1401年)開山)と松田町の延命寺(曹洞宗・敷地内に曹洞宗神奈川第一宗務所)(文明4年(1472年)開山)との直線上にあり、やはり鬼門にある。(可視)
・夏至・冬至日没に箱根寄生火山北端の金時山(可視)
・真北30kmに磐座信仰の名残を多く残し富士神界中心地とされる石楯尾神社。(不可視のため関連性はないと思われる)

などなど古神道からの自然信仰や富士・箱根磐座として役割も推測でき、祭祀的に重要な地域の拠点であったからこその延喜式神名帳における相模13座のうち小12座のうちの1番であったのであろう。


約3000年間の富士・箱根の噴火史
・約3100年前箱根山噴火(神山北西斜面で水蒸気爆発)冠ヶ岳を形成
・約3000年前箱根山冠ヶ岳噴火(火砕流発生)
・約3000年前富士山噴火
・約2800年前箱根山噴火(神山北東斜面?)
・約2300年前富士山噴火(泥流が足柄平野にまで流下)
・約2000年前箱根山噴火(神山北西斜面から火砕サージ)
・西暦200〜300年頃年前富士山噴火
・西暦750年頃富士山噴火(万葉集より)
・西暦781年富士山噴火(続日本紀より)
・西暦800年富士山噴火(日本紀略より)
・西暦802年富士山噴火(足柄路廃し箱根路開く)
・西暦826年富士山噴火(寒川神社の記録より)
・西暦864年頃富士山貞観噴火(青木ヶ原樹海形成)(日本三代実録)
・西暦870年富士山噴火(噴煙のみ?)
・西暦932年富士山噴火
・西暦937年富士山噴火(日本紀略より)
・西暦952年富士山噴火
・西暦993年富士山噴火
・西暦999年富士山噴火(本朝世紀より)
・西暦1017年富士山噴火(噴煙のみ?)(更級日記より)
・西暦1033年富士山噴火(日本紀略より)
・西暦1083年富士山噴火(扶桑略記より)
・12世紀後半〜13世紀箱根山噴火(3回)(大涌谷付近小規模水蒸気爆発)
・西暦1435年頃富士山噴火
・西暦1511年富士山噴火(噴煙のみ?)(妙法寺旧記より)
・西暦1560年富士山噴火(日本災異志より)
・西暦1627年富士山噴火
・西暦1700年富士山噴火(日本災異志より)
・西暦1707年富士山噴火(宝永地震)
と非常に多く、寒田神社のある松田にも火山灰などは3000年の間だけでもかなり積もっている。
加えて山部の崩落や酒匂川の氾濫・改修などにより遺跡遺物は残りにくい地形なのであろう。

しかし、寒田神社の別当寺:文殊山大藏院安養寺(修験道、1527年開山し明治維新により廃寺。元々は西明寺跡の東南斜面安養寺屋敷にあった)のある松田庶子の天神下あたりでの住居跡や土器などの発掘は多く、8世紀半ばのものと思われる鉄製品(直刀など)も発掘されている。
天神山にあった天神社(昭和60年頃宅地造成により社撤去)も現在は寒田神社に大正2年に合祀されており、噴火被害などから住民を守ったことから天神様が住む山とされたと思われ、寒田神社や氏子は地域の守り神として天神山を厚く祀っていたのであろう。
また、松田庶子山中にある天神山の大字が松田惣領なのも、松田氏が松田を治めた鎌倉時代には信仰の対象とされていたからではないだろうか。1の鳥居(承應3年(1654)大洪水により流失)があったとされる宮下児童公園と寒田神社を結ぶと天神山に向かう


 小田原市千代のある国府跡とされる千代廃寺跡との関係も興味深い。相模国府は未だ多くの説があり、確定的なものは存在しない。
東名高速道路建造の際、寒田神社の近くを流れる唐沢の上流から8世紀のものと思われる窯が発見され、その窯で製造された瓦と千代廃寺に使われた瓦は合致しており、国府であったとされる千代廃寺と松田は強い繋がりがあったことがわかる。
また、瓦の原料である土の採掘場所は東名高速道路建造により消失してしまった。
同時代の8世紀半ばの鉄製品は庶子の諏訪氏屋敷内諏訪明神塚で発掘されており、宝亀1年(770)に建立された松田観音堂の本尊聖観音菩薩(鎌倉時代の酒匂川氾濫により流失)の作者行基は東大寺の建立などにも携わり、鎌倉時代創建の西明寺の善光寺如来立像は長野県諏訪市の善光寺三尊の中尊がモデルとされるなど、朝廷や諏訪との関わりもあったであろうと推測できる。善光寺の創建は諏訪の社人、下社春宮・秋宮によってなされ、蘇我氏との戦に負けた物部守屋の怨霊封じの為に造られた説があり、諏訪大社の諏訪氏は綏靖天皇の同母兄の神八井耳命の子孫ともされる。
諏訪氏屋敷内に諏訪明神があり、松田庶子には諏訪氏の庶流とされる大島氏が多く、諏訪氏屋敷の所在も昔有力者の屋敷があったとされる中(高)屋敷近くにあり如来立像は現在も庶子を中心に各戸を巡回していることからも、諏訪地方からの有力者の派遣もあったのであろうか。


松田庶子の天神山の麓斜面から縄文中期の火焔形土器や住居跡などが出土していることからも松田には縄文時代から人が住み、土器の存在からも何かしらの農耕が行われており、寒田神社創建当時の神祭に使用されたといわれる一組の椀(松田町文化財)は弥生時代後期の
ものとされ、弥生時代後期にはすでに当地で盛大な神祭りが行われていたのであろう。
鎌倉時代から名を残す松田惣領土着の農民であったとされる北村氏(現在は神山に多い)も古くから寒田神社の神祭りに関与していたのであろう。
小田原市東部のショッピングモールから発掘された弥生中期中葉関東最初期の縄文人・弥生人の混合集落(中里遺跡)との関係もあったのではないだろうか。
酒匂川左岸小田原市千代地域は弥生時代後期からの古墳や土器の出土が多く、東日本最古級の鉄滓も見つかっており、土器は東海地方西部の影響を強く見られ(国府津では駿河地方の大廓式土器が出土など)、古墳時代前期の重圏文鏡、珠文鏡、銅釧の発掘もあり、祭祀的な様相も伺えるが、千代地域は弥生時代から墓域としての発展をしている。
大井町中屋敷遺跡は弥生時代前期後葉、土器は遠賀川式と思われるものもあり、中部・東海地方の影響が強い。


紀元前3世紀頃秦の徐福らが富士山に霊薬を求め渡日するなど、富士山は古代から日本の象徴であった筈だが、古事記・日本書紀など一級資料には不自然なほどに富士山に関する記述が少ない。

寒田神社は延喜式相模国小十三社の一とある足柄平野最古級の神社であり、春分・秋分の富士山への日没・月入や周辺遺跡との関連からも、地域の(祭祀的な)重要拠点であったのであろう。
近隣では小田原市が考古学財団と協力しての発掘調査や研究発表会・シンポジウムを開催するなど、土地の歴史への積極的な体制が整っているのに対し、松田町が考古学に消極的(無関心?)ないのが悔やまれる。口伝による古老からの伝承もほとんどされなくなった昨今、寒田神社を中心とした地域の歴史は忘れ去られる一方となってしまうのか・・・



平成22年1月2日寒田神社の脇(新十文字橋下)の酒匂川から。薄いが富士山が見える。春分・秋分はここから日没を撮影したい。


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番外編



松田町松田惣領の延命寺にある堅牢地神の石碑

この地域は道祖神が異常に多い。松田町近辺に限っては道祖神と同じくらい多いのが「堅牢地
神」。
「堅牢地神」とは、バラモン教の女神プリティヴィー(梵名ビリチビ)であったが、仏教に取り込
まれ、それぞれの方位や位置を守る十二天の一つとなった。地天(じてん)ともいわれ、大地
を司り、天に配される梵天と対比される。
「地天」の文字が示すように、「堅牢地神」の石塔は、農民が豊作を祈願するために造立した
ものが多い。「地神講」または「庚申信仰」の講中により立てられたものでろうか。
十二天はインド古代神などが仏教にとり入れられて護法神となったもの。帝釈天(たいしゃく
てん:東を守る神)、火天(ひてん:東南を守る神)、焔摩天(えんまてん:南を守る神)、羅
刹天(らせつてん:西南を守る神)、水天(すいてん:西を守る神)、風天(ふうてん:西北
を守る神)、毘沙門天(びしゃもんてん:北を守る神)、伊舎那天(いしゃなてん:東北を守る
神)までの天が各方位にあてられてはじめ八方天として成立したものに、梵天(ぼんてん:上
を守る神)、地天(下を守る神)、日天(にってん:日を守る神)、月天(げってん:月を守る
神)が加わって十二天となる。
広辞苑によれば地天は仏の成道のとき大地より現れてこれを証明し、また、仏の転法輪(仏の説
くところ、“戦車の車”が敵を粉砕するように衆生の迷いを破ること、すなわち仏の説法)を諸
天に知らせるということである。
日本の粗霊信仰と結びつき屋敷の中で祀られるようになった。
大地は万物を正有し、堅牢不動なる徳を有するが故にこの名があり、密教では、金剛界曼荼羅
(真言宗)の四執金剛神の一尊である地天と同一視する



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撮影 P905i